2016年12月10日土曜日

12月10日(土) 宣教開始—悔い改めなさい④







愛する者たち。

私たちはこのような約束を与えられているのですから、

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、

神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。


        

コリント人への手紙 第二 7章1節







きよめの力



悔い改めというと、

私たちはどうしても過去の罪の赦し、

今まで犯してしまった罪の赦しということばかりに

目が向いてしまいます。



しかし、主の十字架の力は、過去にだけとどまるものではないのです。



ヨハネの手紙 第一の1章9節の御言葉の中に、



「すべての悪から私たちをきよめてくださいます」



とありますが、

この「きよめる」という言葉は、

罪の染みを取り除くという意味があります。



つまり、私たちの過去に犯した罪を赦して、

義としてくださり、

白くしてくださるだけでなく、



これから後の将来においても、

その告白した罪と誘惑に打ち勝っていく力が、

主の十字架から与えられてくる、



ということなのです。



主は私たちが、

真実に自分の罪を告白するとき、

私たちを赦し、きよめて、

すべての悪に打ち勝つ勝利者として、

本当の姿へと変えてくださるのです。



「悔い改め」は、

私たちの過去をきよめるだけでなく、

私たちの将来、未来までもきよくする力があるのです。



なぜなら、

私たちの信じている神さまは、時間を創造され方であり、

主イエス・キリストには、不可能はないからです。


2016年12月9日金曜日

12月9日(金) 宣教開始—悔い改め③





私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。

私は申しました。

「私のそむきの罪を主に告白しよう。」

すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。






         詩篇32篇5節





自分の罪を悔い改める



さらに悔い改めるとき、

注意しなければならないことがあります。



真剣であるにもかかわらず、的がはずれてしまい、

十分に、主の祝福を見ていないことがあるのです。



ヨハネの手紙第一に



「私たちが自分の罪を言い表すなら、

 神は真実で正しい方ですから、

 その罪を赦し、

 すべての悪から私たちをきよめてくださいます」



とあるように、

私たちは「自分の罪」を言い表し、悔い改めるのです。



ところがしばしば、自分の罪ではなく、

他人の罪を悔い改めている人がいるのです。



特に、とりなしの祈りのときに、よくあるのですが、

他の人の罪を、一生懸命言い表して悔い改めている方がおられるのです。



夫や妻のことを祈るときも、

子どものことを祈るときも、

日本のことを祈るときも、

気づいてみれば、



「あの人は、こんな悪いことも、

 あんなどうしようもないこともしていますが、

 どうか憐れんでください。

 赦してください」



と祈るのです。



「この国は、偶像礼拝と姦淫の罪で満ちていますが、

 どうか彼らを憐れんでください」



と祈るのです。



なるほど、この祈りは間違いではありません。



しかし悔い改めは

「他の人」の罪を告白するのではないです。



あくまで

「自分の罪」を告白するのです。



自分の罪を告白するときに、

主は喜んで赦し、

十字架の力が流れてくるのです。



日本の罪を悔い改めるときも、

私たちは自分のこととして、祈らなければなりません。



「私たちの偶像礼拝の罪、

 この汚れに満ちた姦淫の罪、

 この私たちの罪をどうか赦してください。



 私たちは、まだあなたの事を知らず、

 本当の神様がわからないでいるのです。

 それはイエス様を知っている私が、

 彼らに、十分に、あなたのことを伝えていないからなのです。

 それは、私の罪、私たちの罪です。

 どうか私を赦し、私たちのこの国を憐れんでください」



と祈るべきなのです。



ひとりの韓国人のクリスチャン女性が、

ある日本人男性と結婚しました。



彼は暴力団の幹部だったのです。

彼女は、そのことを知りませんでした。

結婚して日本に来て、

しばらくして、

ご主人がやくざだったということを知ったのです。



夫は放蕩三昧をして、

悪いことばかりしていました。



彼女は耐え切れずに、主に叫びました。

そのときです。



ご主人のために祈ろうとした

そのときに、

主の御声が聞こえてきたのです。



「お前が悪い」と。



彼女は耳を疑いました。

しかし確かに、主が語られたのです。



彼女の目からは、涙があふれてきました。



夫に対する主の憐れみと愛が、

彼女の心にあふれてきました。

主に促されて彼女は

「自分の罪」を悔い改めたのです。



彼女の祈りは天に、

そして夫に届きました。



主は、彼女の祈りを聞かれました。



それどころか、

やくざから足を洗った夫とともに、

今では、主のために働いているのです。



これが真実な悔い改めの実です。

これが私たちの信じている聖書の神、真の愛の神がなされる

私たちの悔い改めへの実、応えなのです。

2016年12月8日木曜日

12月8日(木) 宣教開始ー悔い改めなさい②





もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、

神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、

すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


ヨハネの手紙 第一 1章9節

まちがった悔い改め

自分の罪に対してあやふやなままされる悔い改め、

心を見られる主の前に

真実でない形だけの、あるいは口先だけの悔い改め、

それは退けられます。



それと、もう一つは、

それとは逆に、

心から自分が悪いと思って

主の前に悔い改めているのに、

そして主はもう完全に許して下さっているのに、

どうしても、その主の赦しを受け取ることができないで、

同じことを、

何度も、何度も、繰り返し、繰り返し

悔い改めている方がいらっしゃいます。



このような方は、

いつまでも、自分を責め苛んで、

罪悪感の中で、苦しみもがき続けてしまうのです。



こういうタイプの方は、

主イエス・キリストが

十字架でなしてくださった完全な赦しを、

信仰をもって、受け取って行かなければなりません。



自分の感覚や感情ではなく、

御言葉に対する信仰が必要なのです。



多くの母親が、

自分の子どものことで痛んでいます。



子どもに問題が起こると、

それが病気であれ、

心の問題であれ、

登校拒否であれ、

非行であれ、

こうなったのは自分が悪かったのだ、

と心の深いところでは、

ほとんどの母親は思っているようです。



そして自分を責め続けるのです。



時には何年にもわたって悔い改め続け、

これは悔い改めというよりも、

悔い悔い悔いと言った方がいいかもしれませんが、

自分を責め続けてしまうのです。



そして中には、病気になってしまう母親さえいます。



確かに、子どもに何か問題が起こったということは、

母親にも悔い改めねばならないことがあるのでしょう。



しかし、

主の前に心を注ぎだし

真実に悔い改めるならば、

ただ一度の真実な真剣な悔い改めで、

あなたの罪は赦され、

あなたが失敗したと思った、

その取り返しがつかないと思っていることさえ、

全能の神である主は、益としてくださるのです。



そうです。



あなたのお子さんにとっても、必ず益と、最善としてくださるのです。



それが私たちの主です。



不可能のない愛の神であられる主イエス・キリストを、信じてください。



あなたの感覚や感情に

サタンは訴えてきますが、

それに耳を貸してはならないのです。



私たちは、



神の御言葉に、

十字架の恵みに



目を留めるべきなのです。


2016年12月7日水曜日

12月7日(水) 宣教開始—悔い改めなさい①






しかし主はサムエルに仰せられた。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。

 わたしは彼を退けている。

 人が見るようには見ないからだ。

 人はうわべを見るが、主は心を見る。」





    第1サムエル16章7節



真実な悔い改め



悔い改めと聞くと、

すぐに暗いイメージを抱く人が

多いような気がしますが、

あなたはどうでしょうか?



もしそうでないなら、

あなたは福音を、正しく理解されているのです。



なぜなら、悔い改めは恵みであり、

私たちを、十字架によって与えられた救いの喜びと平安の中に、

どんなときにも保ち続けてくれる祝福だからです。



でも多くの場合は、

そういうふうに正しく理解されてはいないのです。



残念ながら、

本来救いと喜びにいたるはずの悔い改めが、

責め立てられるような罪責感と自虐的な思いに

変えられてしまっています。



だから人は、本気で悔い改めようとしないのです。



クリスチャンになってからでさえも、

悔い改めの実を結び、

天の御国の豊かな祝福の中に生きている人は少ないのです。



多くの方々が、

悔い改めの実を見ずに、

今なお、

悪魔がもたらす地獄の苦しみの中におられるのです。



それは、

主に2つの誤った悔い改めの態度から来ていると思われます。



まず第一に、

罪に対して、

あやふやな態度のまま成される

いい加減な悔い改めは、

悔い改めがもたらす主の祝福を、

受けることができません。



「私が悪かったです」



という心からの真実な悔い改めは、

実に多くの祝福をもたらしますが、

見せかけだけの形だけの悔い改めは、

主に退けられてしまいます。



主は、心をご覧になるからです。



サウルは、主から

アマレクを打ち、すべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、

聞き従うことができずに、

肥えた羊や小羊や牛の最も良いものを惜しみ、

つまらない値打ちのないものだけを聖絶しました。



預言者サムエルは、

このことを怒り、

サウルのところに行きましたが、

サウルはすぐには自分の不従順を認めようとせず

「私は主のことばを守りました」

と言います。



サムエルに

「私の耳にはいるあの羊と牛の声は何ですか」

と問い詰められたときでさえ、

「民が最も良いものを惜しんだのです。

 あなたの神、主にいけにえを捧げるためです」

と民の責任にして、

悔い改めずに言い訳しました。



サムエルが「やめなさい」と言って、

はっきりと

「主の御声に聞き従わず」

と言ったときでさえも

「私は主の御声に聞き従いました」

と言い張ったのです。



その後で、

やっとサウルは自分の罪を認めますが、

その時でさえ自分の面目のために、

サムエルに一緒に帰って礼拝してほしいと頼むのです。



彼の悔い改めは、本物ではありませんでした。



もしも彼が自分の不従順を心から認め、

真実に悔い改めていたならば、

主はサウルを退けはされなかったでしょう。



もしもサウルが、

心から悔い改めていたならば

ダビデの末からではなく、

サウルの末からイエス・キリストが

誕生していたのです。



サウルは悔い改めのない心のゆえに、

主から退けられてしまいました。



そして、主が与えようとされていた

大いなる祝福を失ったのです。


2016年12月4日日曜日

12月4日(日) 5つのバンと2匹の魚




わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、

パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」

彼らは答えた。「七つです。」





マルコの福音書8章19節



主は今も生きておられる



5つのパンと2匹の魚を通して奇跡を行い、

男だけで5千人を養われた主イエスは、

今も生きておられます。



信仰が十分にあったわけではないアンデレが差し出した

少年のお弁当を用いられた主イエスは、

今も不十分な私たちの差し出すものを

喜んで用いて奇跡をなさってくださいます。



私たちは、今あるものを主に感謝し、

主が、私たちに与えてくださるものを惜しまずに、

人々に分け与えていきましょう。 主は、そのとき、

今も働いて大いなる業を、なしてくださいます。




2016年12月2日金曜日

12月3日(土) 5つのバンと2匹の魚⑥




人々はみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、

魚の残りも取り集めた




マルコの福音書6章42・43節



十分に分け与える



イエスは弟子たちに、

人々が、ほしいだけ分けるように言われました。



それで、人々は十分に食べて満腹したのです。

その後で、余ったパン切れを集めると、

何とちょうど12のかごが、いっぱいになったのです。

配った弟子たちは12人でした。



イエスは

「こんなに大ぜいだから、少し控え目にして、  

みんなのことも考えて、少なめで我慢しなさい」

とは言われなかったのです。



お腹を空かせていた人々にほしいだけ、

こころゆくまで十分に与えられたのです。

これが、私たちの信じている主イエスの姿です。



弟子たちは自分たちが食べる前に、

まず人々に配ることをしなければなりませんでした。

配っても配っても、パンは減るどころか増えていきました。

でも、もし突然、途中で増えることが止まってしまったら、

もう彼らの食べる分は、なくなってしまうのです。



彼らが、そんな不安を持ったかどうかはわかりませんが、

最後のひとりが食べ終わったときに、

主は余ったパン切れを集めるように言われたのです。



そして、それは、ちょうど彼らと同じ12のかごいっぱいになりました。



主は完全なお方です。

主のなさることは、何と美しくすばらしいのでしょうか。



私たちにも、主イエスは、まず人々に分け与えるようにと言われます。

しかも人々が、ほしいだけ十分に。



でも、そんなことをしたら私の分がなくなってしまう。

そんなふうに、私たちは考えて恐れてしまうのです。

主イエスは、あなたの分をちゃんと用意しておられます。

しかも十分に。

私たちも、このときの弟子たちのように、

人々に分け与え、

そして、主のすばらしい奇跡のみ業を見せていただきましょう。


12月2日(金) 5つのパンと2匹の魚⑤




そこで、イエスはパンを取り、

感謝をささげてから、

すわっている人々に分けてやられた。

また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。




ヨハネの福音書6章11節



感謝



イエスは、

人々をすわらせながら、

5つのパンと2匹の魚を手に取って、

天を見上げて、

それらを祝福し感謝を捧げられたのです。



それから、パンを裂き、人々に配るようにと弟子たちに与えられました。

イエスは

「たった5つしかありません。  

父なる神さま、こんなに少ないのです。  

何とかしてください。増やしてください。お願いします」

とは言われなかったのです。



人の目には、たった5つしか見えませんが、

主にはそれで十分だったのです。



イエスは、5つのままで祝福し、感謝されたのです。  



私たちも、すでに与えられているものに、感謝する必要があります。

今あるものを、主イエスに感謝しましょう。

そのとき、 5つのパンが増え続けて、

5千人の人々が十分食べることができたように、

きっと、主イエスは、あなたにも、

今あるものから奇跡を始めてくださることでしょう。



私たちよりも、はるかに高い計画の中で、主は奇跡をなされるでしょう。

主イエスにとって足りないことなどないのです。



今のあなたを感謝してください。

今の状況を感謝してください。

他の人々と比較することも競争することも止めて、

主が、あなたに置かれているすべてを、そのまま感謝しましょう。

そこから奇跡が始まります。



あなたが感謝を始めるなら、

必ず主のすばらしさを、あなたは知るでしょう。

2016年12月1日木曜日

12/1(木) 今日のみことば 映像





12月1日(木) 5つのパンと2匹の魚④




イエスは言われた。

「人々をすわらせなさい。」

その場所には草が多かった。

そこで男たちはすわった。

その数はおよそ五千人であった。




ヨハネの福音書6章10節



信仰の備え



5つのパンと2匹の魚を見たとたん、

イエスは言われました。



「人々を座らせなさい。」



それで、人々は草の上に座りました。

これは、からだを横にすることです。

当時のユダヤでは、からだを横にして食事をしていたのです。

今そんな風にして食べると、行儀が悪いと言われますが、

それが当時の習慣だったのです。



つまり、イエスは、食事を食べるための準備をさせたのです。



イエスは奇跡を行う前に、

まだ、パンは5つのままで、魚も2匹のままのときに、

食事を食べる準備を、人々に命じられました。



私たちにも同じように、主イエスは語られます。

奇跡が起こってからではなく、

奇跡が起こる前に準備しなさいと言われるのです。



リバイバルが起こる前に、

リバイバルが必ず来るから、

その準備をしなさいと言われるのです。



このとき、
人々が言われた通り草の上にすわって食事をする準備をした時に、

十分食べることができたように、



私たちも始まって来ているリバイバルの働きに対して、

具体的な準備をしていくときに、

すばらしいリバイバルの働きに預かり、担うことができるのです。